日本の性風俗の原点は吉原にある?

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吉原には独特の言葉の響きがあります。

しかし、本当の吉原とはいったいどんな所だったのでしょうか。

映画や小説では様々な描き方をされていますがそこには多くの人が生きた証も有るものです。

時代の流れの中で生まれそして、消えて行った吉原という存在をもう一度ここで振り返ってみる事にしましょう。

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吉原遊郭の遊女はソープ嬢の始まり?

現在では最高の風俗と呼ばれているソープランドですが、これらは勝手も遊郭や赤線と呼ばれた地区にしか存在していません。

ファッションヘルスのように風営法の範疇でどこでも出店できるものでは無いのです。

また、新しく開業する事は事実上不可能となっています。

その為、表側を何度も改築して新しいように見せ続ける必要があるのです。

また、そう言った関係上廃業を決めたお店はかなりの高額で商権が売買されています。

江戸時代を代表する日本文化の一つが吉原の遊郭です。

この遊郭と現代のソープランドは似て非なるもの。

その吉原遊郭と遊女についてこれから話を進めて参りましょう。

遊女の始まり

遊女とは江戸時代における風俗嬢の事である。

と考えてもさほどの違和感はないでしょう。

しかし、遊女というものは本来、神殿で神様に使える巫女のたちの一部であったとされています。

神官や貴族たちに使え踊りや歌を披露して楽しませることがその本分であったのです。

そして、そういったいので言う所の接待・接客の中のひとつのスキルとして性技もあったのです。

古代ではセックスはイザナギとイザナミの間で行われた、国産みの儀式に通じるものとしてとても神聖なものとしても受けとめられていました。

セックスという行為を生殖や快楽としてのものだけでなく神聖なものとして考えるのは古代社会では世界各地にその痕跡が見られます。

日本ではこの遊女たちが全国を旅しながら、自らの芸の技術を高めて行ったのです。

歌を歌い、踊りを踊って楽器を奏でる。

そして、性技も広がって行くようになったのです。

時は流れ、豊臣秀吉が大阪に全国各地から遊女を集めました。

そう、これが日本初の遊郭の原型となったのです。

当時は国家が主導して風俗街を作って行ったのです。

遊女になった女性たち

遊女として吉原へといく女性たちは果たしてどのような女性たちだったのでしょうか。

現在のように風俗情報誌などもない時代の事です。

本人の意思というよりもそうせざるを
得ない実情があったのは言うまでもないでしょう。

最も多かったとされているのは、農家の口減らしでした。

貧困な農家が多い地方では食べ物が無い為に子供を何人か減らす必要に迫られる事が多くありました。

そんな時、働き手となる男の子は残し、お金になる女の子を遊郭へと売ったのです。

これは農家に限った事ではありませんでした。

武家や商家であっても生活の困窮を乗り切る為の手段として行われていたのです。

又、遊郭で生まれた女の子も必然的に遊女となりました。

それしか生きて行く方法を知らなかったのです

遊女としての期間

遊女となった女性たちはその後にどのような人生を送ったのでしょうか。

親元から遊郭へと売られた女の子はお客をとれる年齢になるまでは下働きをしていました。

平均的には17歳になって初めてお客をとれるようになったとされています。

女性としての最低の成熟期間をその頃と見定めていたのでしょう。

現在でも女の子は保護者がそれを認めれば満16歳以上で有れば結婚する事が出来ます

そう考えるとある程度は理にかなっていたのかも知れません。

さて、こうしてお客をとれるようになってから10年画遊女としての契約期間とされていました。

この17歳のなるまでの間は例え何年いたとしても一切お金にはならないのです。

しかも10年間、お客を取り続けると言う事も至難の業でした。

もし、10年間働いても親に渡した金額に満たなかった場合は更に条件の悪い遊女として働くか、縫子や飯炊きと呼ばれる雑用係として働き続ける以外に方法は無かったのです。

全盛期には吉原だけで8000人強の遊女がいたと言われていますから、一大風俗タウンで会ったことは間違いありません。

吉原の遊女は吉原から出る事は一切許されませんでした。

吉原の外に出る時は遊女を見受けしてくれる男性で現れた時か親の借金を返し終えた時しかなかったのです。

遊女にも格付けがあった。

現在の風俗でもナンバー嬢とよばれるような格付けがあります。

そして、当時の遊女にも格付けがありました。

最上位は、花魁と呼ばれていました

お店によっては大夫と呼んでいた事もあったようです。

その下に、格子女郎・局・端女郎・切見世女郎というピラミッドが形成されていたのです。

花魁となるとその待遇は最早、遊女というレベルでは考えられなかったと言います。

例え誰であろうとそれ相応の金額を用意しなければなりませんでした。

例え大名であっても身分には全く関係が無かったのです。

通常は花魁と関係を持つ為には、なにもしないで隣で酌をして貰うだけの酒宴を3回開くというのが通例でした。

それもなにもしなくてもちゃんとその料金を払うのです。

花魁ともなると一回の酒宴で現在の感覚でなら1000万円程度が必要だったと言います。

これを3回行うとやっと花魁との一夜を過ごせるように求める事が許されたのです。

しかし、これは求める事が出来たというだけのものです。

最終決定権は花魁に有りました。

これだれのお金を使っても花魁が嫌だといえばそこから先は無かったのです。

花魁との逢瀬はお金と人となり、そして運が必要だったのです。

また、当時の遊郭は現在の永久指名が通例でした。

つまり一度、吉原で遊んだらその遊女がいる限りは他の遊女と遊ぶことは許されなかったのです。

最高位の遊女

最高位の遊女は間違いなく花魁です。

花魁はどのような女性たちだったのでしょうか。

花魁には身の回りの世話をする女の子が付いていました。

彼女たちは禿とよばれ公私の全てに渡って花魁の身の回りの世話をしたのです。

そして花魁たちは豪奢な着物をきてただひたすら美しくある事に専念していたのです。

男性は花魁という遠い存在を何度も夢として見ていましたし、女性からも憧れの対象として見られていたのです。

芸材のアイドルに近い存在であったとも言えるでしょう。

ですから、浮世絵の題材としても数多く描かれていたのです。

将来、花魁となるような女性は子供の頃から数多くの教育をうけます。

漢詩や和歌・書道や茶道だけでなく香道や華道・琴や三味線など多岐に渡っての教育をうけます。

着物の着こなしやお化粧そして、性技までの全てをしっかりと教育されたのです。

これだけの教養もある美女な訳ですから特別扱いを受けていたのも納得できますね。

遊女の避妊と性病予防

遊女としての仕事を続けて行く上で避妊と性病予防はとても重要なものでした。

どちらにしてもそうなったら遊女として働けなくなるのですから本当に死活問題でも有ったのです。

避妊の方法

江戸時代にはコンドームはまだ存在していません。

ゴムというものが知られていないのですから開発されている筈は無いのです。

但し、精液が女性を妊娠させるものであると言う事は長年の経験から既に知られていたようです。

その為、動物の皮を加工したコンドーム状のものがあったとも言われていますが現実的に考えてとても使用できるようなものではなかったと思われます。

また、子宮への精子の侵入がなければ妊娠しないことも分っていたようで和紙を小さく畳んで女性器の奥へと入れておくと妊娠しないとも言われていたようです。

多少の効果はあったかも知れませんが実際にはあまり意味を為さなかったでしょう。

妊娠予防薬としての漢方薬も処方されていたといいますが、きっと効果は無かったであろうと思われます。

妊娠すると仕事が出来なくなるのでもし妊娠してしまったらなんとかして早くおろすようにとかなり無茶な方法が行われていたようです。

結果としては、遊女の命まで奪われた事も少なくは無かったでしょう。

性病対策

コンドームが無い事は、そのまま性病の感染リスクも高かった事を意味しています。

特には病気の予防と避妊の観点から、酢と水を混ぜたもので陰部を洗い流していたという説もありますが全くといって良い程、効果は無かったでしょう。

また、もし感染したとしても現在のような抗生物質がある訳でもなく漢方薬的なものを飲んでじっとしている事で自然治癒を待つといった状態であったと推測されます。

当然、これで治る訳は無く遊女たちは亡くなっていった事でしょう。

こうした状況もあって、当時の遊女たちの平均寿命は22歳だったとも言われています。

お客をとるようになって約5年、まだ年季の半分を迎えるまでに多くの遊女は無くなって行ったのです。

遊女を辞める時

遊女を辞める時、それは遊郭から出る時です。

しかし、遊女は借金を返し終わらないと遊郭から出る事は許されません。

時には、足抜けという脱走をして逃げ出そうとする遊女もいたようですが先ず成功する事はなく後で悲惨な仕打ちが待っていたのです。

また、もしうまく脱走したとしても物心がつく頃からこの遊郭の中しか知らないで育ってきたのです。

外の世界でひとりで生きて行くなど到底むりな話です。

しかし、ほんの僅かな可能性は自分の事を気に入ってくれたお客さんが自分を買い上げてくれるという夢のような話がある事もあります。

花魁クラスになるとお店の損失も大きいので現在の価値なら軽く一億円位でしょうか。

これを見受けといい吉原では伝説とまで呼ばれるハッピーエンドです。

しかし、それでも結婚すると言う訳ではなく囲われの身であったと言われています。

まとめ

絢爛豪華なイメージのある吉原、しかし歴史という事実は辛くも悲しいものであったようです。

現在の風俗は時には辛く悲しい場合もあるかもしれませんが、基本的には自分の意思で始め自分の意思で辞める事も出来るのです。

そうした平穏な時代に生まれた事に感謝したいものですね。

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